思うところあり、アーティスト・ステートメントを見直していた。
私が残したい写真を適切な言葉で言い表すなら何だろう?と考えていたとき、「遺伝的記憶」という言葉がふと思い浮かんだ。
山を作品の対象としはじめたときから「遺伝」という言葉にひっかかりを覚えていたのだけど、釣りでいう「バレる」のように、一度針に掛かっていた魚は針から外れ、逃げられたまま時が過ぎていた。
そのバレた魚を呼び戻すようにもう一度言葉の海へと針を垂らし、浮かんできたのが「遺伝的記憶」だった。遺伝子に刻み込まれた記憶をトリガーにシャッターを切っているのではないだろうか?と、感じる出来事があったからだ。
しかし、本当にそんな言葉が存在するのだろうか?と気になりネットで調べると、学習行動はRNAを介して子孫に遺伝する、つまり記憶の一部はRNAに保存されるという記事を見つけた。「遺伝的記憶」という言葉そのものが正しいか分からないが、内容としてはかなり近いのではないかと手応えを感じたと同時に、自分の感覚が間違いじゃなかったことに鳥肌が立った。
そこまで調べて、以前「写真の<哲>学」でご一緒した写真家の清水哲朗さんの写真展「おたまじゃくし」のことを思い出した。そういえば、清水さんも遺伝について語られていたような…とステートメントを拝見するとそこに「Genetic Memory(遺伝的記憶)」という言葉が書かれていた。
「やはり言葉として存在するのだ」と嬉しく思っていたら、さらにこの言葉を裏付ける出来事があった。SNSで繋がりのある方が「生命の危険を感じた時から、人は記憶が始まるらしい」と呟かれていたのだ。しかも「遺伝的記憶」について調べていたその日に。
私が読んだ研究記事も、遺伝的記憶は生命の危険を感じたときに記憶されるとあり、記憶される箇所は脳なのか遺伝子なのかは定かではないものの「生命の危険」という共通項を見出してさらなる確信を得た気がした。
ちなみに、幼少の頃に残る鮮明な記憶ってなんだろう…と手繰り寄せてみたところ、生卵を落とし割り母にこっぴどく叱られたことと、小学校の入学時にパーマを掛けられ「ベートーヴェン」というあだ名を付けられ嫌だった、というものだった。これも遺伝的記憶に刷り込まれているのだろうか?