私という者を認識する為に

命が残した色。冬の色。

 

Instagramの更新を再開しました。

気が向いたら更新していましたが、何故かInstagramは更新が続かず。その理由として思い当たるところは色々あるのですが…。

そもそも、何故再開させたのか?

その答えは、もう少し私という者の身近な日常に向き合ってみようと思い始めたからです。最近は山を被写体とすることが多く、それ自体も私の日常なのですが、もっと身近な日常に目を向けることも大事なのではないか?と。

実は、日常というものほど難しい被写体は無いのではないか?と感じています。身近だから撮ろうと思えばすぐに撮れる。だけど、「それで?」というものは残す意味があるのか?と。

私は誰かの為に写真を撮っているのではなく、排泄したいから撮っています。だから、誰かを幸せにしたいなんて一ミリも考えていない。

最近のInstagramも言葉に出来る写真を排泄しているし、むしろ言葉に出来ないものは載せないし撮らない。

あえて言葉にすることで、私という者の存在、そして私という者の写真、写真を撮る意義について改めて向き合う。そのための行為としてInstagramを利用するのもありなのではないかと思い始めたのです。

まあ、わざわざ排泄物を見せる必要もないのだけど、公衆化すれば三日坊主で辞めてしまうこともないかな、なんて。