個人的に、山岳写真は興味がない。
と言うと、これまで散々山が好きと言い、山の写真を見せてきた私の活動意義が疑われるが、いわゆる「山というものはこうあるべき」と言う写真に興味がないということ。私にとって山は、心象を表現する媒体であるから、朝日に照らされて美しく輝く山肌や、構図を完璧にとりながら山容全体を写すような作品ばかりを撮りたいわけではない。心は笑う時もあれば泣く時もあり、ここにあらずな時もある。ガスに覆われて山容が見えそうで見えない景色や、アウトフォーカスで目線がどこにも合わない景色も撮るし、むしろそうした景色の方が好きだったりする。
だけど…
いわゆる山岳写真が撮りたくなる時もある。それは、山の美しさに圧倒されたときだ。これは撮らなければ…と景色に撮らされてしまうのだ。雄大なパノラマを前にすると下界の悩みなどたわいもないことのように思えてくる。リアル山女日記とでも言おうか。そんな瞬間にシャッターを切らされる。
山女日記とは、さまざまな思いや悩みを抱えて山に登る女性たちの心模様を、山々の風景とともに描写していく小説だ。湊かなえさんの女性心理の表現がとてもリアルで、むしろ登場人物がご本人なのではないだろうか、と思う。そしてそのつぶやきこそが歯に絹着せぬで面白い。登山道を歩く間に脳裏に往来する思いや悩みも、山頂の美しい景色を前にするとどうでも良くなってしまう、といった展開がこの小説のパターンになっている。
そんな気持ちにさせてくれる景色をお持ち帰りしたくなるのはよくわかる。だから、私もついそんな写真を撮ってしまう。今日の写真はまさしくそれだ。
だけど、山岳写真に興味がないのは自分が感じている山ではないからなのかもしれない。そしてやはり、あの美しい景色は五感で感じるから感動するのだと思う。肌を刺す張り詰めた空気、秋から冬に変わる匂い、上空を流れる風の音、緊張と疲労からくる喉の渇き、その後に訪れる安堵。私はおそらく、五感と言う心が見たいのだ。心はいつも感動だけではないから。張り詰めた空気も、匂いも、風の音も、喉の渇きも、安堵も、それぞれを写真に残したい。誰にとっても同じに見える山ではなく、自分が思う山を撮りたいのだ。
とは言え、もちろん山岳写真は素晴らしい。あの厳しい環境に立ち向かい、重い機材を担ぎ、絶対的瞬間を狙いシャッターを切るのだから。あの一瞬のためにどれだけの時間と労力をかけるのかと思うと頭の下がる思いだ。表現には色々なアプローチがある。何が間違いで正しいかは関係なく、何を魅せたいかなのだと思う。
そして余談だが、山女日記も好きだし、いつか悩み多き女性を山に連れて行き、雄大な景色を見てもらい、心を解放してあげたいと思ったりしている。理屈抜きで感動させられると言う意味では、山岳写真と山女日記はアプローチは違えどゴールは同じなのかもしれない。